日本神話の国産み
『古事記』、『日本書紀』一書第一などの日本神話における伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の国生み・神生み神話ではオノゴロ島に天の御柱を建て、イザナギが「私と貴方と、この天之御柱を廻って結婚しましょう。貴方は右から廻り、私は左から廻り逢いましょう」という約束をし、出会ったところで「なんとまあ、かわいい娘だろう。」「ほんとにまあ、いとしい方ですこと」と呼び合って結ばれたという描写があり、結婚式の起源ともいわれる。
平安時代
通い婚の時代での帝(天皇)においては、女御と家族が入った宮中の殿舎に、天皇が三夜しのんだ後発見されたという「露顕(露見)」(ところあらわし)という宴をおこなう。これが現在の披露宴に該当する。民間においても、平安期の結婚は男性が女性の下に三夜続けて通う形式であるが、女性の家ではその間訪れる男性と従者を接待する。3日目には露顕(ところあらわし)という披露宴が行われ、新郎新婦が披露される。列席者は妻側の関係者のみに限られる。
室町時代
和泉流の狂言『舟渡婿』では通い婚が「露見」した後に嫁と舅の家へ鯛などの魚と酒を持参し祝いをするという式を行うことが前提になっている。
安土桃山時代
1563年(永禄6年)に来日し、安土桃山時代の日本の記録を残したルイス・フロイスの書簡によれば、「日本では結婚式をおこなわない」と記述されている。しかし、 この時代も有力な武家の婚礼は盛大に行われた。また、高台寺では当時、下級武士だった豊臣秀吉とねねの結婚について、「土間に藁を引き、その上に薄い敷物を敷いただけのささやかな祝言」を挙げたという記録が残るなど、当然この時代においても身分によらず婚姻に際しての儀式、すなわち結婚式は行われていた。
江戸時代~明治
婚席に神々が臨在するという考えは中世の床飾りから見られ、江戸中期の貞丈雑記に明文化された。新郎の自宅に身内の者が集まり、高砂の尉と姥の掛け軸を床の間に掛け、鶴亀の置物を飾った島台を置き、その前で盃事をして結婚式をする、いわゆる祝言が行われた。家の床の間は神様が居るとされる神聖な場所で、掛け軸や島台も神さまの拠り所でもあるとされ、当時から結婚式は宗教と密接な関係があった。10月 (旧暦)は「神無月」であったので、結婚式はこの月を避けて行われた。 民俗学者の柳田國男著の『明治大正史』及び『婚姻の話・定本柳田國男集15』によると、少なくとも幕末から明治初期までの庶民による結婚式は、明治以降に確定した神前式の形式とは同じではなく、自宅を中心とし、婿が嫁方の実家でしばらくの間生活するという「婿入り婚」と呼ばれる形式であったとしている。この際、新婚生活の初日に嫁方の家で祝いの席がもうけられることがあったが、夜の五つ(現在で言うところの午後9時頃)から行われることが多かったという。同じく柳田によると、江戸時代であっても、同じ村内の者同士が結婚する場合には祝言が行われないか、あるいは簡素なものであったが、村外の者と結婚する例が増えてくるに従って形式が複雑化し、神前式に近いかたちになっていた、と述べる。また、庶民の結婚式の場合は、神職が吟ずる祝詞より、郷土歌や民謡、俗謡を歌うことが多かったとされる。祝詞であっても、現代の神前式のように「天津祝詞」が吟ずられるようになったのは明治以降である。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
結婚式・出産記念・出産祝い・1歳誕生日プレゼントに人気の体重ベア
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*